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知らないものが怖いだけ

 夕方のバス停だった。  学校帰りや仕事帰りの人たちが並び、みんなスマホを見たり、ぼんやり道路を眺めたりしていた。  その中に、一人だけ少し変わった男がいた。  長いコートに古いヘッドホン。  髪は少し伸びていて、手には小さなキーボードケースを持っている。  彼は時々、街角で即興ピアノを弾いていた。  誰も思いつかないような旋律を、まるで空から拾ってくるみたいに。  でも街の人たちは、そんな彼をよく笑っていた。 「なんか痛いよな」 「芸術家気取り?」 「変わってる」  後ろの方から、ひそひそ声が聞こえる。  彼は聞こえていた。  でも振り返らなかった。  少しだけ笑って、空を見ていた。  その時、近くにいた女子高生がぽつりと言った。 「なんでみんな、ああいう言い方するんだろ」  友達が肩をすくめる。 「知らないからじゃない?」 「え?」 「理解できないものって、不安になるじゃん。だから笑ったり、下げたりして安心したいんじゃない?」  その言葉に、女子高生は黙った。  確かにそうかもしれないと思った。  自由に生きている人。  周りを気にしない人。  好きなことを堂々としている人。  そういう人を見ると、自分の中の何かが揺れる。  “自分は本当にこれでいいのか?”  その不安をごまかすために、人は相手を笑う。  バスがやってきた。  男は静かに乗り込む。  すると、降り際に小さな子供が彼に向かって言った。 「お兄ちゃん、またピアノ弾いてね!」  男は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。 「うん、また弾くよ」  バスのドアが閉まる。  走り出した窓の向こうで、街のネオンが流れていく。  女子高生はその背中を見ながら思った。  もしかしたら――  変わっている人なんじゃなくて、  まだみんなが知らないだけなのかもしれない。  知らないものは怖い。  だけど、本当に新しいものは、いつも最初はそうやって笑われるのかもしれなかった。

近づきたい夜、離れたい朝

   雨上がりの夜だった。  駅前のカフェの窓には、水滴がまだ少し残っている。  街のネオンがぼやけて映り、世界全体がやわらかく滲んでいた。  直樹はホットコーヒーを両手で包みながら、窓の外をぼんやり見ていた。  人が多い街だった。  笑い声も多い。  カップルもいる。  友達同士で肩を叩き合っている人たちもいる。  でも時々、この街は妙に孤独だった。  誰もが誰かとつながりたがっているように見える。  なのに、どこか壁がある。  直樹自身もそうだった。  本当は人と話したい。  理解し合いたい。  一緒に笑いたい。  でも近づきすぎると苦しくなる。  相手に気を使いすぎる。  自由がなくなる気がする。  傷つくのも怖い。  だから少し距離を取る。  すると今度は寂しくなる。  その繰り返しだった。  カラン、と店のドアが開いた。  白いシャツを着た女性が入ってくる。  二十代後半くらいだろうか。  濡れた髪を軽く払いながら、店の奥を見渡している。  空席が少ない。  女性は少し困った顔をしたあと、直樹の向かいの席を見た。 「ここ、座ってもいいですか?」 「あ、どうぞ」  女性は小さく頭を下げて座った。  しばらく沈黙が続いた。  でも不思議と嫌ではない。  外では車のタイヤが濡れた道路を滑っていく音がしている。 「雨、長かったですね」  女性が言った。 「ですね」  それだけの会話だった。  でも直樹は少し安心した。  無理に盛り上げなくていい。  無理に面白いことを言わなくていい。  それだけで楽だった。 「人といるの、疲れる時ありません?」  突然、女性が言った。  直樹は少し驚いて笑った。 「あります。かなり」 「ですよね」  彼女も笑った。 「寂しいのに、一人になりたい時があるんです」  直樹は黙って聞いていた。 「誰かといたいのに、近づきすぎると逃げたくなるというか」 「わかります」  それは、直樹がずっと言葉にできなかった感覚だった。  女性は窓の外を見ながら続けた。 「たぶん人って、矛盾してるんですよね」 「矛盾?」 「つながりたい。でも自由で...