投稿

レジ越しのこの国

  ビルの二階にあるレストランは、夜になるとやけに明るかった。 通りの向こう側から見上げるたび、ガラスの奥でシャンデリアが揺れているのが見えた。あの光だけ、同じ街のものじゃないみたいだった。地上では酔っぱらったサラリーマンがネクタイを緩めて笑い、コンビニの前では髪を染めた大学生がしゃがみこんでタバコを回している。そのさらに横で、俺はレジに立っていた。 「袋、いりますか」 自分の声が、自分のものじゃないみたいに薄い。 バーコードを通すたびに、ピッ、ピッ、と小さな音が鳴る。 その音だけが、夜のこの国の輪郭を正確になぞっていく気がした。 缶ビール、カップ焼きそば、ストロング缶、安いおにぎり、半額シールの弁当。 夜の客が買っていくものは、だいたい決まっている。 この街の生活は、レジを挟むとよく見えた。 誰が余っていて、誰が削られていて、誰が明日を諦めかけているのか。 俺は大学生だった。 そう言うと少し聞こえはいいが、実際は学生というより、シフトの隙間に講義を詰めている労働者に近かった。奨学金という名前の借金を背負って、時給千百八十円で夜を売っている。テスト前だろうが何だろうが、休めばその分だけ生活が削れる。参考書を開く時間より、レシートを捨てる時間の方が長かった。 店長はよく、「今の学生は大変だよな」と言った。 そのくせシフト表を作るときは、容赦なく土日も試験前も埋めてくる。 大変だよな、と思うなら休ませてくれ。 そういう言葉は喉まで出かかるけど、出したところで翌月のシフトが減るだけだ。 黙って「はい」と言う。 この国では、だいたいのことはそうやって回っている。 深夜一時を過ぎると、客足は少し落ち着く。 ガラス越しに外を見ると、ビル二階のレストランにはまだ客がいた。 白い皿。細い脚のグラス。背筋の伸びた女。笑いながらワインを傾ける男。 たぶん朝飯六千円とか、そういう世界の人たちだ。 俺の一か月分の食費より高いディナー。 エレベーターひとつで行ける別世界。 見上げるたびに、腹が立つというより、変な笑いが込み上げた。 同じ街の中に、ここまで違う光があるのかと思う。 俺はレジの光の下で、指先を荒らしながら釣り銭を数えている。 あっちはシャンデリアの下で、フォークとナイフの角度に気を配っている。 ...

『心の中の戦争』

朝のニュースが、やけに大きな音で流れていた。 「中国で日本人ビジネスマン拘束」 「政府高官、消息不明」 「台湾海峡で心理戦」 画面の下に流れるテロップは、赤く、速く、鋭い。 誠はテレビを消した。 カフェラテの泡が、静かにしぼんでいく。 「怖い国だな」 思わず口に出してしまった自分の声に、少し驚く。 本当に、そう思っているのか? それとも、ニュースがそう思わせているのか? 通勤電車の中は静かだった。 みんなスマホを見ている。 同じニュースを、同じ角度で、同じ言葉で。 中国は危険だ。 台湾は緊迫している。 戦争は近い。 誰かの言葉が、心の中で反響する。 戦争は、もう始まっているのか? 昼休み、同僚の李(リー)がコーヒーを淹れていた。 彼は上海出身で、日本で十年働いている。 「最近、ニュースすごいね」 誠が言うと、李は苦笑した。 「うん。うちの母も電話してきたよ。“日本は大丈夫か”って」 二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。 怖がっているのは、同じだった。 テレビの向こうでは互いを警戒しているのに、 目の前にいるのは、ただの同僚だ。 ラーメンが好きで、残業が嫌いで、娘の写真を見せびらかす父親だ。 敵ではない。 夜、誠はベランダに出た。 空は静かだった。 「戦争は心の中から始まる」 そんな言葉が浮かぶ。 もし、恐怖が積み重なれば、 疑いが積み重なれば、 それはいつか現実になるのかもしれない。 でも、逆もあるはずだ。 安心を積み重ねれば。 対話を積み重ねれば。 信頼を、少しずつでも重ねれば。 翌日、誠は李に言った。 「今度、家族ぐるみでご飯行かない?」 李は少し驚いて、それから笑った。 「いいね。うちの餃子、世界一だよ」 その瞬間、誠の中で何かがほどけた。 ニュースは今日も騒がしい。 心理戦も続いているのだろう。 政治は複雑で、思惑は絡まり合っている。 けれど。 心の中で始まった戦争は、 心の中で止めることもできる。 平和外交は、遠い会議室だけの話じゃない。 目の前の一人と、どう向き合うかだ。 安心して暮らせる世の中に。 それは大きなスローガンじゃなくて、 静かな日常の積み重ね...