サポーター 赤い蛍光灯の下で

  最初に彼女を見たのは、駅前のストリートコンサートだった。


 プロのバイオリニストが夜風の中で弾いていた。音は柔らかく、街のざわめきの上をすべっていく。彼女は最前列で、身じろぎもせずに聴いていた。演奏が終わったあと、何気ない会話を交わしたのが始まりだった。


 それから何度か、近くのカフェでお茶を飲んだ。


 ある日、彼女はバッグから一冊の本を取り出した。


「資本論の解説本なんです。読みやすいですよ」


 僕は少し笑った。

「学生の頃に読んだよ。もういいかな」


 彼女は「あ、そうなんですか」と言って、本をしまった。


 そのころは、まだ普通だった。




 彼女は明らかに、そのバイオリニストに惚れていた。

 演奏が終わると、彼の姿を目で追っていた。声をかけるタイミングを測っているようにも見えた。


 ある夜、僕が隣に立って話しかけたとき、彼女はわずかに顔を背けた。


 聞こえないふりをした。


 二回目も同じだった。


 少し離れた場所に、そのバイオリニストが立っていた。


 あとになって思えば、他の男と親しくしているところを見られたくなかったのだろう。だがその場では、そんな理屈は浮かばなかった。ただ無視された、という事実だけが残った。


 いったんその場を離れたが、戻ってしまった。

 そして声を荒げた。


 周囲が振り向いた。


 その瞬間、自分でも「ああ、やってしまった」と思った。


 それから彼女のLINEは止まった。




 しばらくして解散総選挙のニュースが出た。


 なぜか胸がざわついた。野党がまとまれば何かが変わるのではないか、と本気で思った。


 地元一区の衆議院候補の講演会に足を運んだ。会議室の蛍光灯は少し青白く、パイプ椅子が規則正しく並んでいた。候補者は原稿を握りしめながら話していた。


「流れを変えたい」


 その言葉が妙に真っ直ぐに聞こえた。


 気がつけばサポーター登録をしていた。その流れで、別の野党の事務所にも顔を出し、そこでも名前を書いた。野党が割れているなら、全部応援すればいい。勢いだった。




 やがて、いわゆる「赤い」と言われる政党の事務所にも出入りするようになった。


 幹部が来る日、赤いシャツを着て駅前に立った。

 チラシを配りながら声を出した。


 事務所の蛍光灯の下では、ビラを折り、印刷機を回し、電話を取った。机を囲んで作業していると、不思議と楽しかった。文化祭の前夜のような熱気があった。


 映画『レッズ』のワンシーンみたいだ、とふと思った。歴史の端に指先が触れているような気がした。


 ただ同時に、頭のどこかでは、この党の過去の話も思い出していた。理想の裏にある対立や分裂。熱は人を結びつけるが、同時に焼くこともある。




 そんなとき、彼女にLINEを送った。


「よかったら、サポーターにならない?」


 数日後、本当に事務所に現れた。


 蛍光灯の下で再会したとき、彼女は小さく挨拶をしたが、目は合わなかった。距離は、以前よりはっきりしていた。




 そしてある日、留守番をしていた年配の女性が、穏やかな声で言った。


「あなた、あの人に近づかないでください」


 少し間があって、


「ストーカーなんでしょう?」


 言葉は静かだったが、耳に強く残った。


 怒りがこみ上げた。侮辱されたと思った。だが同時に、どこか可笑しさもあった。僕が彼女に執着している? そんな物語を誰が作ったのか。


 正直に言えば、僕は彼女に惚れてはいなかった。若い女と遊んでいるし、結婚だの恋だのという位置づけでもなかった。それなのに、まるで彼女が中心であるかのような話になっている。


 呆れた。


 そして一瞬、くだらない考えがよぎった。

 そんなに自分が好かれていると思うなら、逆に振り向かせてみるか、と。


 だがすぐに消えた。

 それは意地だ。安い衝動だ。




 出入り禁止になった。


 怒りはあったが、胸の奥では少しだけ安堵していた。このまま関わり続ければ、内部の力関係や対立に巻き込まれていただろう。歴史がそうであったように、理想はいつも穏やかではない。


 渦の外に出た。


 それでよかったのだと思う。


 それでも、蛍光灯の下のあの熱気が、時々思い出される。インクの匂いと、ビラを折る手の感触。あれは確かに本物だった。


 怒りと、侮辱と、少しの笑い。

 そして選ばなかった衝動。


 僕は、革命にも恋にも、最後まで踏み込まなかった。


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