ナンパ失敗記 タイツの女性
今、桜町バスターミナルの中の酒屋の前にいる。
地下にあって、ベンチが置いてある。
ここはバスターミナルの一部で、
特別に生活のにおいが強いというわけではない。
人が通り、少し座り、また立ち去る。
それだけの場所だ。
こないだ、そのベンチに若い女の人が二人、座っていた。
タイツ姿で、年は二十四、五歳くらいだと思う。
片方は色白で、メガネをかけたロングヘアーだった。
少し話してみたいと思った。
だから一度、背中側にあるフードウェイに向かった。
二人が立ち上がる前に戻りたかったので、
買い物はかなり急いだ。
必要なものをさっと取って、
ほとんど考えずに会計を済ませた。
すぐに戻ると、まだ二人はそこにいた。
横に座って、話しかけた。
僕はピアノを弾くので、
スマホに入っていたYouTubeの演奏動画を聞かせた。
すると、「ピアノ、すごくいいですね」と言われた。
それで、聞いてみた。
「おじさんみたいなのって、彼氏としてどう?」
彼女は、
ちょっとエッチっぽい微笑みを浮かべて、
「うーん」という感じだった。
はっきりした答えはなかったが、
まんざらでもなさそうに見えた。
いけるかもしれない、と思った。
そのあと、彼女のスマホが鳴った。
電話の相手は彼氏だった。
通話が終わってから、僕は言った。
「彼氏いるんじゃない」
それから、
「浮気はどう?」
「今晩、一晩、お願いできませんか」
彼女は何も言わなかった。
ただ、エッチっぽい微笑みを浮かべたまま、
しばらくして立ち上がり、
そのまま行ってしまった。
⸻
そのとき、
ベンチの隣に座っていたおっさんが、
小刻みに震えているのに気づいた。
「寒いんですか?」と聞いた。
「いや、別に」と言う。
「アル中ですか?」と聞くと、
「そうだ」と答えた。
本当にアルコール中毒なのかは、わからない。
むしろ、
さっきからのやり取りを見ていて、
僕を怖がっていた可能性のほうがある気がした。
若い女に、
平気で声をかけて、
距離を詰めて、
浮気だの一晩だのと言う。
そういうことを、
ためらいなくやる男に見えたのかもしれない。
だから震えていた。
でも、「怖い」とは言えない。
代わりに、
「アル中だ」と言えば、理由になる。
アル中なら、震えていても不自然じゃない。
怖がっているわけじゃない、
体の問題だ、という顔ができる。
本当のところは、わからない。
ただ、
あの震え方は、
寒さとも、酒とも、
少し違って見えた。
地下の酒屋の前のベンチは、
今日もそこにある。
人が座り
人が話したり、黙りあっていたり
そして去っていく。
理由になりそうな言葉だけが残る。
震えは、
寒さでも、酒でも、
別の何かでもよかった。
確かめられないまま、
その場は流れていく。
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