天使降臨 2話 恋愛モード

 彼女からの電話を待っていた。1週間、2週間。かかってこなかった。僕は多分振られたのだと思った。だが本当のことはわからないし、もしそうだとしても、あんなに素敵な子と友達になれたらと思って、彼女のバイト先の店に行くことにした。4時ごろから小雨が降っていた。高校生だからバイトは夕方かな、と思った。5時ごろ繁華街のそのビルについた。ビルのエントランスのところに彼女が立っていた。白いブラウスに黒のチノパン。困ったような表情をしている。声をかける。

「こんにちは」

「あ、きてくれたんですね。バイト終わって帰ろうと思ってたんですけど、傘持ってきてなくて」

「あ、じゃあ送ります」

「お腹減ってないですか?」

「いいえ」

2人は相合傘で歩き始めた。彼女の右腕が僕の左腕に触る。

「優しいですね」

「ありがとう。女性と相合傘なんて滅多にないから」

「ハハハ」

彼女は距離をとろうとしないどころか腕を押し付けてきた。柔らかい感触が心地いい。バス停に行く途中に大きなホテルが見えた。クリーム色の壁。たくさんの縦長の装飾窓。僕は急に歩みを止めた。2、3歩先に行った彼女が振り返る。僕は慌てて近づき傘をかざす。彼女の手首のあたりをそっとつかんだ。彼女が驚いて僕の目を見て、そして視線をそらす。微かに震えている。その畏れにあえて立ち向かうかのように、じっとして膨らんだ胸を張っている。

「行こう」

「うん」

彼女が意外なことを言い出した。

「ちょっと待って」

「何?」

「今日はダメ」

「どうして?」

「血液検査に行って」

「何言ってんだよ」

2人とも完全にタメ口だ。ましてや相合傘で寄り添っているのに、2人の距離はまだ遠いような気がする。大きなホテルが小雨の黄昏時に薄暗く見える。

「あなたナンパするくらいだから、検査やってもらわないと」

「え? 俺ナンパ初めてなんだよ」

「ほんと?」

「嘘じゃないよ」

「そう。信用したいけど、嘘じゃないって言う保証もないわ。あたし初めてなの。でも、あたしも検査するわ」

「いいよ別に」

「ダメ。女子高生でも遊んでる子達はいるわ。だから、あなたにちゃんと安全だって証明しなきゃ」

「いいよそんなこと」

はやる気持ちが抑えられない。

「ダメダメ。明日2人で検査に行くの」

「わかんない」

「じゃあ、あなただけでもいいわ。検査に行かなきゃ、しない」

「強情だなあ」

「あなたこそそうよ。検査に行かないなら他の人をナンパすれば?」

2人とも感情的になっている。こんなことで言い合いになるとは思ってもいなかった。たった2日目でこれだ。僕たちは性格的に合わない。今後こんなことで何度も言い合いになるのはゴメンだ。強くそう思った。だが、彼女としたい。

「わかったよ。明日検査に行くよ」

僕は卑しい薄笑いを浮かべながら言った。彼女に見透かされた。

「あなたって、こんな人だとは思わなかった」

「どう言うことだよ」

「自分の胸に聞いてみたら?」

確かに彼女の体欲しさに卑屈になっている。

「わかった。君の言う通りだ。どうすればいいんだ? 検査に行かないとダメ、行ってもダメ」

「そう言うことよ」

「なんだって?」

「ダメなものはダメ」

「わかったよ。じゃあ許してくれるまで待ってる」

「どうかしら」

どう言う意味だ? そもそもこっちが許しを乞うようなことか? 僕はムッとして言い捨てた。女はこいつ1人じゃないさ。

「わかった。君にはもう会わない」

「そう。じゃ、さよなら」

彼女は僕をキッとにらむと、小雨の中を小走りでバス停の方へ向かった。小雨に濡れている。彼女のバックパックにぶら下がった赤いヘルプマークが揺れる。

「あっ」

僕はとっさに駆け出して、彼女に追いついた。

「これ」

傘をさしだす。

「え?」

彼女は受け取る気がなかった傘を握って、キョトンとしている。

「また」

「、、、うんまた、、、店に来て」

「わかった」

僕は小雨に濡れながら道路を挟んだ向こう側のバス停へ向かった。屋根のあるバス停のベンチに座る。道路を隔てて斜め前のベンチに彼女が座っている。彼女が小さく手を振る。僕も。しばらくして彼女が立ち上がる。バスが来る。バスが去った後、彼女の姿はあっけなく消えていた。それから僕は彼女が座っていたベンチを眺めていた。

 次の日、昼少し前に店に行った。建ってから2年目のビルで、ひときわ清潔な印象だった。3階までエスカレーターで上がり、フロアを歩きながら店を探す。すぐに見つかった。入るとカウンターの内側に小顔で細身の背の高い青年がいる。黒のタイトな制服。

「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」

「はい」

「ではカウンター席、お願いしていいですか?」

「ええ」

左から2番目の席に座ってメニューを開いた。結構な値段の和食の写真が、ひとページずつに載っている。その1つを注文する。しばらくして奥のテーブル席の方から彼女が来た。

「やあ」

「あ、来てくれたの」

彼女がぱっと笑顔になる。

「うん」

彼女がすぐにお茶とおしぼりを持ってきて、他の接客に行ってしまう。もう1人の青年が奥で接客をしている。やっぱり小顔の細身で背が高い。彼女がまた近づいてきたので

「どっちの人がタイプ?」

と冗談とも思えるような言葉で探りを入れてみた。

「性格ならカウンター」

「じゃぁ、見た目はあっち?」

「さあ」

彼女は照れ臭そうに笑った。さっきから僕に対して少し警戒するような視線だった、カウンターの青年の表情が和らいで赤くなる。多分聞こえていたんだろう。なるほど、そうなんだ。どうなるのかなこれから。料理が出るまで結構時間がかかった。いつも安い店ばかりに行っているからそう思えるんだろうか。料理は薄味で上品なものだ。わさびの皿があるが、どう使うのかわからなかったので、接客の青年に聞いてみた。最後に残った炊き込みご飯を、お茶漬けにして食べると言うことだ。彼も人柄の良い感じだった。食べ終わって、お茶漬けを作ろうとした。彼女にやり方を聞いてみたが要領を得ない。

「とにかく混ぜればいいんだよね」

返事がない。僕がお茶漬けを作っていると彼女はそばを離れない。

「行っていいよ」

と、ちょっとぞんざいに声をかけた。彼女が無言で離れる。食事が終わって、彼女に小さく手を振った。僕が席を立つ。彼女も僕もレジへ。

「また来てください。楽しみにしています」

と彼女が照れながら接客マニュアル口調で言う。

「おいしかった。また来るよ」

レシートが機械から出てくる。彼女はボールペンをとって、素早くレシートの裏に何か書いた。僕に渡すと、また接客へ。店を出て、エレベーターの前でレシートを見ると

「水よう 2じ 二の丸こうえん」

と書いてある。心臓がドキッ。ビルを出て帰り道、あのホテルが見える。次こそは彼女と、、、。店でのひとときは、楽しかった。彼女と同じ空間を過ごすだけで、こんなに満ち足りた気分になるんだ。ナンパから始まったことなのに、なんだか普通の恋愛っぽくなっている自分に気づいて少しおかしかった。

 水曜日、公園には僕が先についた。ベンチに座ってしばらくすると、彼女が来た。明るい緑の芝の上を歩いてくる。薄いピンクのカーディガンに白のサロペット。僕の前まできた。

「待った?」

「ほんの少し」

「ごめんなさい」

「いいんだ。人を待ってるとき、その人のことをいろいろ考えるのが好きなんだ」

「へえ〜」

彼女が手で軽くベンチを拭いて、座る。

「気持ちいいね」

「うん」

「若葉が綺麗だね」

「そうね」

「どうしたの? 浮かない顔して」

「ごめん。お母さんが再婚するって言いだしたの。でも、あたしイヤ」

「へ〜、そうかもしれないけど、お母さん幸せになりたいだろ」

「理屈じゃないわ」

「そっか、、、でもね、ある女性アーティストの受け売りなんだけど、君がいる分お母さんは君にとってどうかってことを考える。だからきっとお母さんは、より正しい判断をするんじゃないかって」

「そうね。正しい判断をしてもらわないと」

「君だって男を見る目を持たなくちゃ」

「ハハハ、そうね。でも、お母さんの彼氏カッコいいんだ」

「なんだそれ」

少し嫉妬している自分に気づく。

「もう一つ打ち明けたいことがあって」

「何?」

「あたし中学生のときイジメにあったの」

「え、僕もなんだ」

「いつ頃?」

「僕も中学のとき。今なら蹴飛ばしてやるんだけどね」

「ハハハ」

「当時は恥ずかしくて親にも言えないだろ。一人で辛かったんだ」

「そうね。あたし、ずっと罪の意識を持ってた。でも、ある映画を観たの。少女のときレイプされた女の人が立ち直る話。そしてわかった。犯罪をおかしたのはいじめた方。あたしは被害者。あたしは汚されても、少しも汚れてなんかいないわ」

「そうさ。胸を張って行こう」

「堂々とね」

「君はその相手を許せる?」

「むずかしい」

「僕も。でもまたそのアーティストの言葉なんだけど、人を許すことは自分のためだって」

「そうね。確かに」

「そいつらも、きっと軽い気持ちだったんだろ」

「でも、イジメられた方の傷は深いわ」

「そうだね」

「でも、自分のために許したい」

「うん、僕も」

「、、、あなた、、、そのアーティストが好きなの?」

「まあね。以前は恋愛モードだった。どうせ叶わないのにね。ハハハ」

「以前?」

「ああ。僕はどんなにすごいアーティストより、この公園にあるような1本の木の方が偉大に思えることがある」

「へ〜、どうして」

「木って、僕らがどんなに自然をよごしても、文句一つ言わないで恵みを与えてくれる。それに木を見てると、素直な気持ちが戻ってくるんだ」

「わかる気がする」

「きみって不思議だけど、深刻な話をしてても、少しもジメジメしてない」

「それって、ほめられてる? 暗いと思われてるかって心配してた。ただ、あなたには何でも話せちゃうの」

「そりゃ、光栄だね」

彼女のほのかな香りが、、細い体と膨らんだ胸に目がいく。僕は急に切り出した。

「門限何時?」

「10時」

「血液検査行ったよ」

「そう。ゴメン。あなたが店に来た次の日、カウンターの男の子に告白されたの」

そうか。あんときの会話、やっぱり聞こえてたんだ。余計なこと言わなけりゃな。一晩だけでもと言いたかったが、グッとこらえた。

「じゃあ、僕たち今日でお別れ?」

「友達でいましょう。また店に来て」

一晩だけ、なんて言わなかったのは正解だったと思った。

「うん、そうするよ。でも彼がなんて思うか」

「彼には、ただの友達って言っとくわ」

ただの友達、、、ハハハ、、、体の力が抜けていくのがわかった。

「そうだね」

「じゃあ、あたし帰るわ」

「あ、まだ名前知らないんだ」

「早瀬理菜」

「僕、山口優(ゆう)」

「あたしの電話番号は、、、あ、今気づいた。あなたやっぱりナンパ初心者だったのね。だって電話番号、聞かないなんて」

「そうだね」

「もし、小雨の日にそれに気づいてたら、あたし達結ばれてたんだなぁって」

「うまく行かないもんだね」

「フフフ」

含み笑いが、ちょっと気になった。

「また、お店で」

「うん」

視線があう。彼女が少しはにかみながら立ち上がり歩き出す。もう彼女とは、、、まっすぐな背筋の細いからだをボーッと見る。一度振り向いてと思う、、、彼女がチラッと振り向く。それから、まるで未練がないかのように振り向かずに行ってしまった。僕は公園で涙をこらえていた。


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