天使降臨 1話 ヘルプマーク

 美術館の1階ホール。広さは15メートル四方くらい、天井は高い。柿色の壁。右手にブロンズの裸婦像が2体。後ろには大きな窓があり、外は公園の緑が雨上がりの小さな宝石たちを含んでいる。静かで落ち着いた場所だ。僕はそのホールのすみの背もたれのない椅子に腰かけ、ぼんやりと空間を見ていた。左の方からひとりの女性が僕の前をゆっくりと通り過ぎる。白いワンピースの後ろ姿に視線をやる。160センチくらいだろうか。彼女は奥のレストランの方へ歩いていたが、何を思ったか突然振り向くと、こちらへ戻ってきた。彼女が近づく。僕の視線は彼女にくぎずけになる。彼女は目のやり場に困ったように、少し微笑みながら視線をそらす。それから彼女は僕の座っているコーナーの対角線の先にある隅の椅子に座った。その椅子の横にはもうひとつ椅子がある。ピンときた。誘われている。僕はかなり迷った。ナンパはしたことがない。10分近くが過ぎた。でも彼女は席を立とうとしない。なけなしの勇気を振りしぼって席を立ち、彼女の左側の椅子に何気ない顔をして座った。彼女を見ずに声をかける。

「涼しいところですね」

「そうですね」

彼女に少し視線をやると顔が赤らんでいる。ナンパしたい男とナンパされたい女。お膳立ては揃っている。

 彼女のバックパックが床に置いてある。見るとヘルプマークが下がっている。長方形の赤い小さな札にプラスとハートの白いマークがある。

「どこか悪いんですか?」

彼女を横目で見ながら聞いた。

「発作がおきると急に倒れることがあります」

意図していなかったが、僕は薄笑いを浮かべた。彼女が僕の目を見る。とっさに気取られないように、固い表情を作る。一瞬彼女の表情に影が。でも相手のこんな表情の機微に慣れているのか、すぐに屈託のない澄んだ目で僕の方を向いて続けた。

「気づいた人にやってほしいことを裏に書いてるんです」

ハートマークの裏は、彼女の少し甘く愛らしい顔には不釣り合いな、棘のある文字でびっしりとうめつくされている。綺麗な字ですね、と言おうかと思ったが、見透かされるだろうと思って黙っていた。

「このあいだ急に意識がなくなったら、救急車の中でした。知らない男の人と救急隊員の人がいました」

彼女の傍で彼女の体を見ている2人の男、彼女の命の恩人なのに彼らに対する冷淡な気持ちが、、、

「へ〜、じゃあヘルプマークが役に立ったんですね」

「そうなんです。これって、あたしのお守りなんです。下げてると少し気分が楽になる」

「倒れたとき頭を打ったら大変じゃないですか。ヘルメットをかぶって街を歩くわけにもいかないし」

「ハハハ。冬は厚手のニット帽をかぶるようにしてるんですけど、暑いときはそうもいかないし。眠ってるとき発作が起きたらって思うと1日1、2時間しか眠れなくて」

彼女の気持ちを実感したのではないが、理屈ではわかる。そして常識的な言葉が出てきた。

「それはかえって体に悪い。ちゃんと眠ったほうがいいですよ」

「はい、そうします」

彼女が微笑む。

「一人暮らしですか?」

自分でも予期しなかった言葉が唐突に出た。

「いえ、母と一緒です」

「お父さんは?」

「離婚したんです。あたし暴力を振るわれていたから。今は幸せです」

「つらかったですね」

「はい」

、、、、

「あなた何歳ですか?」

「あ、高校2年です」

僕は驚いた。この落ち着いた雰囲気から、まさかそんなに若いとは思っていなかった。

このナンパが一気にハードモードになるかもしれないと思った。でも、色白の横顔とワンピースの下から膨らんだ胸に目線をやると淡い期待も感じていた。

 しばらく取り止めのない話をしていると沈黙が来た。彼女を見ると頬が少し赤らんでいる。彼女はスマホを取り出し無言で操作し始めた。何か僕から大事な話を切り出して欲しいと思っているのだろうか。彼女の横顔を見ると何かしら少し苛立った不満げな表情にも見える。時間が流れる。僕はこの緊張感に耐えられなくなる。

「何見てるんですか?」

と出口を探る。

「バイトのシフト表です」

「へえ、なんのバイトですか?」

「日本料理店のスタッフ」

「なんて言う店?」

「魚純(うおずみ)」

「どこにあるんですか?」

立て続けに畳み掛ける。

「永江ビル」

やった。これでひとまずは最低首の皮一枚でも繋がっていられる。ここで何事もなく別れたとしてもまた会いに行ける。

「どんな店ですか?」

「うん、カウンターとテーブル席があって、カウンターではスタッフと話ができるの」

急にタメ口で話されたので、少しドキッとした。彼女が少しずつ距離を詰めようとしているような気がする。体の距離も近づいているようで彼女のほのかな香りがよりリアルになる。

「あなたと話せますか?」

僕はまだタメ口で返すことができない。

「はい。でも忙しいからゆっくり時間は取れないです」

また敬語に戻った。また少し距離が離れたような気がしたが、こちらから距離を詰めようとする。

「じゃあ、今度行きます」

「はい」

彼女は喜んでいるのだろうか。それとも問題を先延ばしにする僕にがっかりしているのだろうか。表情からは読み取れない。

「じゃあ、そろそろあたし帰ります」

「ちょっと待って。これ」

僕の電話番号が書いてある名刺を渡す。彼女は受け取って無言で背を向けた。一人残されて思った。彼女を大切にしたい。

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